「人間」と「道具」の決定的な違いについて考えたよ
その昔、「生徒はミカンではありません!!」という名言がありましたが(3年B組金八先生)、今回はそんな感じのハードボイルドな話をして行こうと思います。
内容的には「実存主義」という、哲学っぽいものの話です。
1. 実存と本質の違い
実存主義は哲学とは若干質が異なります。
というか、従来の哲学に反抗するような形で生まれました。
両者の違いはこんな感じです。
- 【従来の哲学】物事の本質は何かを問う
- 【実存主義】人間の実存を関心にする
それでは、[本質]と[実存]の違いは一体何なのでしょうか。
1-1. 本質とは
例えば、「家」の本質は人間が住めることです。
つまり、本質とは、
- 「それはどんなものなのか」を理解するうえで欠かせない条件
- あらかじめ設定さられている目的
という意味です。
1-2. 実存とは
実存は、その反対の意味を持っています。
つまり、
- 今ここにある、ありのままの状態のこと
- 「どんなものなのか」を規定されずに、ただ存在するということ
こんな感じです。
2. 実存主義とは
この2つの違いがわかれば、実存主義もわかったも同然です。
実存主義とは、「実存は本質に先立つ」という考え方に基づいた思想運動のこと。
それでは、「実存は本質に先立つ」とはどういう意味なのでしょうか。
2-1. 「本質は実存に先立つ」
例えば、オノについて考えてみましょう。
オノには物(木など)を切るという[用途]があります。そして、この用途に従って作られています。
用途は[本質]と言い換えましょう。
すると、「オノは本質に従って現在の姿になった」と言えますよね。
つまり、オノのような道具に関しては「本質は実存に先立つ」わけです。
2-2. 「実存は本質に先立つ」
しかし人間は違います。
例えば、[木こり]は木を切るための職業です。しかし、木を切るために生まれた人間はいません。
人生には法則や設計図があるわけではなく、私たちは何者でもない者として、突然世界に産み落とされます。
つまり、私たち人間の「実存は本質に先立つ」のです。
3. 絶望と希望
まあ、要するに
私たちは、自分の生き方は自分で選ばなければならないし、自分で決めたのだからその選択に責任を負わなければならない
と考えるわけですね。
ところで、皆さんはこの状況に対してどう感じるでしょうか。
力強さや希望を感じる人もいるかもしれませんが、何だか途方もなく絶望を感じる人もいるかもしれません。
ただし、その絶望があるからこそ、一歩踏み出せる自分に力強さを感じるという面もあります。
ちなみに、実存主義の提唱者である、ジャン=ポール・サルトル自身は「人間は自由の刑に処せられている」と絶望を感じていたようです。
しかし、同時に[アンガージュマン]という積極性や助け合いの精神に関する概念も提唱しました。
・・・と、ここら辺の話は結構ややこしく、書くのにエネルギーも使うので、いつか元気モリモリの日にやろうと思います。