アゴなりさんの党

「生きづらさ」を解消し「優しい人」になる為のブログ

【プチ哲学】寛容な社会は不寛容な者にも寛容になるべきか

表現の自由の制限について

個人の自由を尊重する人々は表現の自由言論の自由も尊重します。

しかし、一方で、

ヘイトスピーチ(他人種や他民族などに対する過激な憎悪表現)が横行している今、表現の自由は制限無く認めても良いのか」という意見もあります。

哲学的に言うと、「寛容な社会は、不寛容な者にも寛容になるべきか」というやつですね。

  • 寛容な社会→いろんな意見の人々を受け入れる社会
  • 不寛容な者→意見の違う人を排除しようとする者

皆さんも「めっちゃ気になるわ」みたいな感じになっていると思うので、さっそく本編に入っていきます。

1. リベラルとは

津田大介 ©schoo.jp

津田大介 ©schoo.jp

[リベラル(リベラリズム)]という言葉は、一生に一度は聞く言葉だと思うのですが、意味は、

個人の自由を尊重しようとする立場のことです。

今を時めく人で有名なのは、多分、津田大介さんでしょう。

しかし、津田氏は、

ヘイトスピーチが横行しているヤフコメは廃止しろ!

と主張したりします。

これに対し、

リベラルは個人の自由や表現の自由を重んじているくせに、言論統制するのかという主張もあるようです。

確かに一見すると、津田氏の主張はリベラルの教義と矛盾してそうなのですが、検討していきましょう。

2. 不寛容な者に対する寛容

ここで、冒頭にも書いた、

寛容な社会は、不寛容な者にも寛容になるべきか

の話をします。

2-1. 日本の多くのリベラルの場合

カール・ポパー

カール・ポパー

[寛容]を文字通り捉えれば、不寛容な者にも寛容になるべきでしょう。

しかし、哲学者のカール・ポパー「無制限の寛容は、確実に寛容の消失を招く」と主張します。

理由をかいつまんで言うと、

  • 不寛容→力強くて、わかりやすい
  • 寛容→弱々しく、ストレスがたまる

よって、多くに人にとって不寛容は寛容よりも魅力があるわけです。

現に、「〇〇人出て行け!」と言う人間は、けっこう「国を守る戦士」「男らしい」と思われがちですよね。

また、暴力や武力によって寛容な者を黙らせようとする場合もあります。

そんなわけで、

不寛容な者に寛容になり過ぎたら、やがて寛容な者がいなくなって、社会から寛容さが失われるからダメだよ

というのが、ポパーの考え方です。

おそらく、日本のリベラルは基本的にこの考え方だし、多くの人も納得するのではないでしょうか。

2-2. 生粋のリベラルの場合

しかし、生粋のリベラルはこのように考えません。

なぜなら、「〇〇人出て行け!」と言う人は、その意見が善いと思って言っているからです。

対して、日本の多くのリベラルは「〇〇人出て行け!」という意見に不寛容にするのが善いと思っています。

つまり、どちらも自分の意見の方が善いと思っているわけです。

生粋のリベラルはどちらの意見が善いのかは判断せず、ただただ、それぞれの意見を自由な個人の意見として尊重します。

ただし、「〇〇人殺せ!」という意見は、その人々の自己保存の原則を破りかねないのでダメなようです。

自己保存の原則は表現の自由よりも重いわけですね。

3. リベラルと奴隷制

今回は「表現の自由」についての話というより、[リベラル]の話になってしまったのですが、

文字数的に、この辺で終わりにしたいと思います。

ちなみに、生粋のリベラルは奴隷制ですら容認していました。

奴隷制は必要だ」という主張すらも、一つの意見として尊重していたわけですね。

これは「道徳的におかしい」と多くの人は思うかもしれませんが、

「道徳的感情」や「善悪」などのあいまいなものを低位に見るというのが、生粋のリベラルの考え方なのです。

この辺のことは、詳しく書くとあと20000字は必要なので、ボチボチやっていこうと思います。

以上です。ありがとうございました。

↓↓ 最近ブログ村に登録しました。よろしければ、クリックお願いします。

にほんブログ村 メンタルヘルスブログへ
にほんブログ村

コメントやら読者登録やら、はてなスター・ブックマークやらSNSシェアやら、関連記事の読み漁りやらもしてもらえると非常に嬉しいです。